里山エッセイ・鎌倉峯山の四季

峯山の四季折々の状況と活動内容をお知らせします。

211116峯山酒2

11月には勤労感謝の日という祝日がありますが、元々は新嘗祭という宮中の祭儀を起源とします。天皇がこの年の収穫を祝って神に捧げる祭儀です。それが、なぜか勤労感謝の日などと云う何が主体が分からない名称になっています。バカな話しです。
秋は実りの季節ですから、宗教、民族を問わず収穫を寿ぐのは当然のことです。各地で行われる秋祭りも、村祭りの歌詞にある通り、豊作を祝ってドンドン、ヒャララと大騒ぎするわけです。
峯山の会では今年も収穫祭を催しました。ドンヒャラはありませんが、峯山の恵みで作った果実酒で乾杯し、峯山鍋を食し、ドングリクッキーを味わうといった内容です。
酒は、峯山に自生するカキドオシ、茶葉、山桜などをホワイトリカーに漬け込んだリキュールです。
半年も熟成させると無糖なのに仄かな甘みが出てくるのが不思議です。
メイン料理である鍋は、近頃峯山に出没するタヌキや野ウサギを捕まえてぶち込みたかったのですが、実現にはハードルが高すぎます。平凡にトン汁にしましたが、この中にノアザミの根、ナンテンハギ、菜の花をちぎって入れて峯山鍋と称しましたが、やや無理があります。
ウサギやニワトリを飼って、これを峯山に散歩に連れてきてエサを食わせて肥らせ、収穫祭にそれを屠って鍋にしようとか、いやいやヤギを飼うのはどうかと話しが盛り上がりました。こうなれば本格的ですが、これは酒の勢いでしょう。しかし可能性はあります。ブッチャリング大好き人間が出てくれば来年はヤギ鍋やウサギ鍋もありそうです。候補者を募りましょうか。
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   里山エッセイも二巡目を過ぎました。ここでいったん筆を置くことにします。
   ながい間ご愛読頂きありがとうございました。

211011カラムシ
      (カラムシまたはアオソ)
菜の花の種まきをした後に、カラムシが大発生し生育のジャマをしているので刈り取りました。
カラムシと言っても虫ではありません。アオソとかチョマとも言いますが、茎から繊維を取り出して織物にする原材料です。カラムシは、今や嫌われ者の多年草の雑草扱いですが、日本に木綿が持ち込まれる以前は、大変重要な素材でした。鎌倉時代にも越後方面から大量のカラムシが運び込まれて、都市鎌倉の膨大な需要をまかなったと記されています。
現在でも、衣服の素材としては最上の繊維とされています。しかし、生産量は江戸時代の一万分の一にまで減少しています。たいそう手間がかかりコストが高いためです。
カラムシは、温暖な地では年に数回刈り取ることが出来る生育の早い植物です。この点竹に似ています。竹を有効利用すれば、石油やプラスチックの削減効果は大きいはずですが、殆ど無視されており利活用されていません。日本は資源が無い国と言われますが、身の回りには無駄に捨てられているものが沢山あります。地熱エネルギーなどもそうです。温泉利用以外は全て捨てられています。
利用されない理由はいろいろありますが、解決できない問題ではありません。現代の技術をもってすればクリアーできるはずです。例えば見通しの立たない原子力関連にさくマンパワーのほんの一部をそれらに割けば容易に解決できることでしょう。
たまたま、カラムシ、竹、地熱を取り上げましたが、他にも活用できる資源は沢山あります。要は見方を変えることです。発想の転換をすることです。
折柄、これから衆院選が始まります。SDGsに沿った活動を本格的に考える政治家が出てきて日本の方向性を変革して欲しいものです。コロナだけが課題ではありません。

211005_マテバシイ実生
     (マテバシイの実生)

ドングリのシーズン到来です。昨年あたりからドングリの加工をあれこれ試しています。
ご存じのとおりドングリといっても木も実もじつに様ざまです。代表的なのはクヌギやコナラですが、あまり美味くありません。スダジイは大木のわりに実が小さく実用的でありません。一番のおすすめはマテバシイです。実が大きくアク抜きの必要もなく、空炒りするだけで食べられます。生食も可です。縄文人が好んだのではないかと推測しています。そこで、マテバシイの実でクッキーを作り、縄文クッキーと名付けて峯山仲間に提供すると、最初は味がイマイチなどと言われます。その時はよく噛んでみてくれと云います。すると意外な顔つきで、「うん、結構いけるね」とか「味わい深いね」と賛同を得ます。強制されて云ってるわけではなそうです。
つまり、縄文人のように頑健な歯と素直な心?を持たないとその美味しさは分からないのです。
ところで、峯山には手じかに拾える場所にマテバシイの木がありません。そこで、近所に生えているマテバシイの実生を掘り出して、平らな場所に移植しました。今の時期で大丈夫かと案じていましたが、台風の来る直前に植えたのがよかったのか今のところ順調です。
この木が育って、ドングリを落とすのは、これから先10年以上かかるでしょう。私がその姿を見ることは多分無理でしょう。それでも、嬉々としてドングリ拾いに興じる子供たちのことを想像しながら作業をしています。
先人たちが将来のことを考えて育ててくれた木々のお蔭で、今我々が峯山を楽しんでいるわけですから、誰かがやらねばならぬことです。わしがやらねばだれがやるといった心意気です。
里山とは、本来そういったものでしょう。何の手も出さずに、ただ現状を眺めているだけでは里山は維持できないのです。

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