里山エッセイ・鎌倉峯山の四季

峯山の四季折々の状況と活動内容をお知らせします。

タグ:山桜

210410エゴノキ
(雑木林に移植した4年目のエゴノキ 、今年は花が咲きそう)

雑木林を「ざつぼくりん」と読むと林業用語となり、有用でない林、つまり桧や杉ではない林の意味となります。
「ぞうきばやし」と読むと里山のイメージに近くなります。里山とは、地域住民が生活に必要な資源を得るために手入れを怠らなかった人工林のことですから、ほぼ同義語といえます。
しかし、石油による燃料革命で里山の価値は一気に低下して、その結果山の手入れをする人がいなくなり荒れ果てました。峯山も例外ではありません。燃料用に植えられたクヌギ、コナラは巨木化し、アズマネザサ(篠竹)や竹の侵食で人の入れない暗い山となっていました。
手の入らない里山はあり得ませんが、どこまで、どのように手を入れるかは関わる人によってまちまちです。里山の定義をきちんとしておかないと百人百様の状況になります。
峯山近辺は殆ど市有地、県有地です。ということは市民のもの、県民のものということです。我々が里山にどの様な価値を求めるのかによって手入れの方法が変わってきます。
子育て、子供の遊び場として利用したい人、手軽に山歩きをしたい人、山桜を愛する人、山野草に興味をもつ人、樹木や鳥、生き物に触れたい人、様々な要望があるはずです。
里山の価値がどこにあるか考えるとまとまりがつきません。しかし、雑木林として捉えれば整理がつき易くなります。きれいな花の咲く木、実のなる木、紅葉や黄葉を楽しむ木など様々な木々の間をゆっくり散策出来ればまさしく癒しの空間となります。暑い時には木陰を拾い歩いてフィトンチッドを満喫し、冬場には落葉した木々の間から海や山を眺めて開放感を味わう。そして運が良ければ山の幸も得られる。そんな雑木林が身近にあれば、ここに住んでいてよかったと実感することでしょう。こうして里山の価値が高まればボランティア活動も盛んになり、手入れが行き届きます。つまり、大勢の人が山に入り、山を利用することで好循環が生まれ、めでたし、めでたしとなる訳です。

200403宝暦桜
(写真① 宝暦桜)
2003峯山の春
(写真② 峯山の春 2020/3)
写真①は宝暦桜と名付けた樹齢280年の巨木です。そして写真②は、汐見台の三叉路に咲く山桜を先日スケッチしたものです。右側の木は推定樹齢180年です。この場所は、昨年の大風で手前の桑の木が倒れた上、今年に入ってから周囲の真竹を精力的に伐採したので、山桜が晴れ舞台に出てきた印象を受けます。
峯山一帯には300本以上の山桜の巨木がありますが、どうしてなのでしょうか。
先頃、富田昇著「里山の性格とその変貌」を読みました。その中に同じ場所から見た年代別の写真が何枚もあります。
昭和初期の写真を見ると、山は殆どハゲ山状態で稜線がくっきりと見えます。昔の山はみどり豊かだったと思いがちですが実際は真逆です。しかし、これは言われてみれば当然のことなのです。
里山とは、地元の住民の暮らしを支える資源として重要な役目を果たしていました。当然、とことん利用されつくします。木々は勿論、下草も家畜のエサや緑肥として刈り取られていました。
そして、緩やかな斜面は全て畑として野菜や果樹が育てられていました。
そんな里山に山桜の巨樹がたくさんあるのです。山桜にどんなことを期待していたのか不思議です。
それは、花を見ること以外に考えられません。山桜を切り倒せば、そこそこ畑も増やせますし、薪炭用の木々も植えられます。なぜそうしないで山桜を残したのか?
恐らくは、江戸期以前からこの山には山道の両脇に山桜が植えられていたのでしょう。山道は、鎌倉時代には軍用道として機能していたことが分かっています。だから馬の通行を邪魔しないように配慮した位置に植えられています。
連綿として維持された桜の道は、いつしか後世に伝えるべき遺産として、村の人たちは意識したのではないでしょうか。つまりは、文化の伝承にほかなりません。
我々の活動も、鎌倉時代に芽吹いた文化を伝承する活動と思えば、やりがいが増すというものです。

1904orotisakura
今を去ること210年まえ、江戸は寛政から文化年間に入り、かなり混乱していた時代です。浅間山の大噴火に伴う大飢饉の後遺症がかなり残っている上、異国からの開国要求が多発し、騒然としていました。秋も深まる11月の半ば、相模の国鎌倉郡深沢村の山中に一本の山桜が植えつけられました。
そこは峯山の山頂にあたる処です。そこには、二抱え以上もある山桜の巨木があったのですが、昨年のまれにみる大風で根返し状態に倒伏してしまったのです。
この桜は「これは頼朝公ゆかりの桜に違いあんめえ」と、村びとがたいそう大事にしていたので大いに嘆き悲しみ、代わりの木を植えることにしたのです。大庭在から譲り受けた幼樹は、淡い紅色が入った上品な山桜でした。現代のわれわれがオロチ桜と命名した山桜の誕生です。
もともとこの辺りは別名桜山ともいわれた程桜の多いところで、尾根沿いにも山桜の巨樹が連なっています。花見の頃になると村びとたちが三々五々訪れて、持参した大徳利から花見酒を楽しんでいました。娯楽の乏しい時代ですから、酒に酔えるのは盆暮れ以外は冠婚葬祭か神社の祭礼のときくらいなものですが、こういった行事はそれなりの儀式があり、やや窮屈なところがあります。
それに比べると、お花見はだれに気兼ねもなく勝手に振る舞える上、季節的に本格的な農作業の始まる前ですから気分も楽です。年で一番の楽しみといえます。村びとが桜を大切にしてきたのもむべなるかなです。
・・と、こんな事を書いたのは、のうせいさんの「樹齢の考察」(HP参照)を参考にしたからです。今年は、暖冬傾向から桜の開花を心配していましたが、例年と同じころの開花となりました。暖冬で開花が早くなるとは限らず、かえって遅くなることもあるそうです。これは、開花には一定の寒さが必要なためで、自然は一筋縄にはいきません。複雑怪奇です。
望ましくは、平穏無事に四季の移ろいが順調であってほしいものです。そして新型コロナにも遠慮してもらいたいものです。世の中無茶苦茶になりつつあります。

↑このページのトップヘ